年の初めに

先日、思い立って自転車で30分ほどのところにある、ニトリへ向かった。買い物をして帰ろうとしたら、国道を挟んで向かい側にスシローという回転すしの店があり、小腹が空いていたこともあり、寄って行くことにした。3時過ぎだというのに、店内には待っている人がたくさんいた。

ネタしか食べない子どもにシャリも食べさせたり、水をこぼさないように気をつかったり、上の子が下の子をトイレに連れていったり、慌しくもにぎやかに時間は過ぎていった。久しぶりに白米を食べたし、赤だしの味噌汁も飲んだし、デザートも食べた。これで2,000円ちょっとというのは驚きだ。

注文もすべて機械、会計もボタンを押せば店員が来るという、そんな回転すし屋での時間だが、とっても幸福な家族の時間だった。

もっと旨いものはある、あんな店の寿司はすしじゃない、本物じゃない・・・こんな風に言う輩はいるだろう。それはもっともかもしれない。間違ってはいないかもしれない。しかし家族の幸福な時間を、あのような値段で演出できるスシローは、やっぱりすごいと思うんだよな。庶民の味方だと思うんだよ。

なんでこんなことを、書こうとしたんだったかな・・・

つまり、あれだ。

こういう時間が失われるってことは、ものすごく大変、というか、悲しいことなんだよ。土地や建物が奪われることより、幸福な瞬間が失われることこそが、つらいんだよなあ。しかもなくなったことに気付きにくいだろうから(土地や建物と違って)余計に、何を悲しんでいいのかわからないんだろうなあ。

よく失ってはじめてわかるのが「健康」っていうけど、幸福な時間は失ってわかるって種類のものじゃないのかもしれません。もう元には同じ形では戻らないから。

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飲みくらべ

飲みくらべ
分からない…

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成長

夜中に帰宅したら、こんなものが。

足し算と、アルファベット・・・・

すぐ成長しちゃうな。

Sakura1215

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PCなんかでトラブルがあったり、映像の編集を迫られたりしたとき、PCにフリーのソフトをがちゃがちゃインストールして、結果、何もできなかった、という経験はないだろうか。

僕はある。

しかもそれらのソフトは、しばらく時間がたつと、何のソフトだったか思い出せもしないし、かえって深刻なトラブルに巻き込まれることも多い。

昨日「白痴」の上演が終わった。

アトリエ公演、しかも2日間だけの上演だったので、ほんの100名ほどに観ていただいただけだが、いろいろな感想があり、ありがたい。しかし、まずは安吾の言葉を信じ、頼り切ったのが、よかったんじゃないかと思っている。

ご存知の通り、安吾には「堕落論」などの優れたエッセイも多いので、当初はいろいろな言葉を盛り込もうと思ったりもしていたが、やはりシンプルに「白痴」だけにしたのが、まあ、よかったんだと思う。がちゃがちゃ取り込まずに、目の前の言葉を見つめた結果だった。

小説の言葉は、やはり小説の言葉である。

モニターをみたり、舞台の俳優を見たり、アトリエの壁に映し出された映像を見たり、「どこを見てよいものかわからない」という感想は多かったが、その意識の隙間に、ねじりこまれるように、安吾の言葉が挿入される、そんな演出プランだった。

脳に無数のコードが差し込まれている。

舞台にあった電子機器は、安吾の時代には何一つない。おそらく、これから50年もたてば、今では考えもつかないようなものに、舞台が占拠するかもしれない。もちろん舞台とは、私たちの生活と地続きの空間と考えてくださってかまわない。そんな思いもあった。

通し稽古を見た、制作の河野が言った。

「新しいことをやらなくてはいけない。」

時々、いいことを言う奴だ。本当にそうだな。

「白痴」の稽古がはじまって2週間くらいは、怖くて怖くて仕方なかった。「今なら辞められる」と思ったことも何度かあった。「演劇になるのか」という不安もあった。しかし、その恐怖を乗り越えなければ、次には行けないのだな。本当に。

再演はやるつもりです。今回、都合のつかなかった方は、次回の上演をお楽しみに。

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急いで記録しておきたかったんだよ

昨日、お酒も飲んでいて眠かったのに、なんでブログなんか書いたかっていうと、駅から自宅まで歩いていて、「誤読する権利について」の文章が、頭から最後まで出来あがり、急いでそれを記録しないと、どこかへいってしまいそうだったからなんです。

京都で公演中の矢野くんは、ツイッターですぐにレスポンスしてくれてありがたかったけど、今読み返すと、最後の方はかなり滅茶苦茶ですね・・・本当はもっといい文章が出来ていたんですが。近いうちに書き直そうと思っています。(自分で読んでも何を書こうとしていたのか、思い出せない。)

石井さんも静岡みるめで公演だし、鳴海くんも広島だし、なんだか面白い。

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誤読は権利か、ただのミスか。

今、かつてNHKで放映された「プロフェッショナル」がDVDで観られる。いい時代になったものだ。

早速、装丁家の鈴木成一さんと、アートディレクターの佐藤可士和さんが登場するものを借りて観てみた。

おふたりとも、いわゆるビジネスの時間軸に乗られて仕事をされているプロであり「あやふやさを形にする」という、残酷で、プレッシャーのかかる仕事をしていらっしゃる。(興味のある人は是非観てみてください)

私は、お二方から共通するキーワードを見つけた。それはつまり

「真実は(解は)その商品(本)の中にある」という一言である。

お二方は、自らの表現欲をいったん隅に追いやり、貪欲に目の前のものの中にのみ答えを見出そうと努力している。

ここで唐突だが、shelfの矢野くんのつぶやきを観てみたい。

今日は翻訳家の毛利先生が観劇にいらして下さった。終演後の懇親会にも残って下さり、いろいろ談話。面白い話がいっぱい聞けた。イプセンの時代の台詞の変革とか、それと身分差の関係とか。あと翻訳には演出が既に含まれてますよね。っていう共同認識が、面白かった。ただ、直接突っ込んだ議論は出来なかったけど、毛利先生がいい劇作家の戯曲にはすべて台詞にやるべき演技が書かれている、というご意見には反論したかった。演出家には誤読の権利がある。テキストはあくまでもテキストだ。

このつぶやきを読んで感じた違和感はなんだろうか。その違和感とは、テキストはあくまでテキストであり、演出家には誤読の権利があるという部分なのである。

気持ちはわかる。すごくわかる。

しかし演出家は、先に紹介したデザイナーお二人をもってすれば、誤読はしてはならないのである。演出家は、テキストの中に解答が(おそらく)あると思ってにのぞむべきであり、演出家は、テキストの中に真実(あるいは核となるコンセプトのようなもの)を見つけ出し、観客に提示しなくてはいけないのだ。それが両者の仕事内容である。誤読は決してしてはならない。(はず)その制約があるからこそ(繰り返すが)演出家の個性がはじめて生まれる。

もう一度言う。誤読の権利は演出家にはない。誤読したらダメである、アウトだ。もし、演出家に誤読の権利を与えたら、恐らく演出家は思いつきでどうにかしようとする。そこにテキストはない。演出家個人に支配されるだけだ。これはテキストを上演するにあたっては決してやってはいけないことではないだろうか。

私が観たいものは、最終的には俳優だ。楽しく、退屈することなく行われた上演が、誤読の可能性を否定することになるだろうか。私はそうは思わない。教育的側面は飛躍的に必要不可欠のものになるだろうし、私たちも理解しなくてはいけない。

忘れてはいけない。

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観客はいったいどこにいるの?

若い演劇人のカップル(だいたい演劇人は演劇人どうしで付き合う)は、こんな会話をして、芝居を観にいくはずだ。

「来週のあの芝居、行かない?」

「へー、観たことないな」

「結構、面白いよ」

「じゃあ行くか・・・えーっと、金曜がいいかな」

「わかった、じゃあ予約しておくね」

そして観劇したあとは、一緒に観た芝居の内容をあれこれ話しながら酒を飲む。なんて幸せな時間だろう。

僕の場合、子供ができてから一番変わったことのひとつが、観劇にいく機会が減ったということである。

いくら託児サービスがあっても、劇場まで2人の子供を連れていき、子供を預け、託児料金を払い、2時間ほど観劇をし、また家まで2人の子供と戻ってくる。これだけで1日仕事になる。最近はだいぶ慣れたけど、本当に子供連れの移動は疲れる。観劇以前に、こういうことが面倒になってしまい、よっぽど何かがないと観にいかなくなる。

僕一人がフラフラと出掛けていく分には、子供の問題は発生しないわけだけど、これもまあ気分の問題というのがあって、家に帰って、子供を風呂にいれて、夕飯食べて、くつろぎモードに入りつつある雰囲気の中で、自分ひとりが外出のために着替えて、電車に乗って、都心へ向かうっていうのも、そこにはかなり強い動機が必要になる。「そこまでして行く必要あるのかな」と思うと、つい「まいっか」と思ってしまうのだ。ましてや、ひとりで芝居観て、一言も喋らないっていうのは、あんまり面白くない。やっぱり芝居を観たあとは、誰かと話したいものです。

おまけに「観劇」という行為は、あくまで「芝居を観る」ということであって(半分仕事とはいえ)、なんちゅうか後ろめたさが伴う。「パパどこ行くの?」「ん?これからお芝居を観にいくんだ」・・・なかなか理解されにくい。

よって観劇は、平日マチネが、圧倒的に多くなった。芝居を観て帰っても、夕方だからね、問題ないんです。

たまに観た芝居で「奥さんも観て欲しいなあ」と思うことがある。そういうときは、自宅で子供を僕が預かり、奥さんだけに出掛けていってもらう。それが、夫婦にとって一番いい方法だし、少なくとも芝居を観てがっかりすることもないはずだ。同じ芝居を観た後は、家でも会話も弾む。手間はかかるけど、やっぱりこういう時間があるから、観劇っていうのは楽しいわけですよ。

えーそれでですね、これが普通の方のブログじゃないことを思い出していただきたいのですよ。僕も、奥さんも演劇人なんです、そもそも。そういう人間ですら、子供が出来てから、観劇ってものが、ものすごく大変になっているのです。まして、一般の観客の方にとって、さらに劇場から足が遠のくと思うのです。

子育て中の若い夫婦とか、働き盛りの男性とか、そういう人が劇場に参加してくれると、きっといろいろなものが変わると思っていますが、どうなんだろう。演劇だけのことじゃないけど、なかなか劇場に来るのって大変なんですよね、どうしたって。

劇場文化の中に、どうすれば接点が生まれるのでしょう。

「そりゃ、あんたの家が都心から遠いからだよ。下北沢に引っ越せばいいじゃないか。」

はい、それもおっしゃる通り。確かに、今の家は都心からは遠いですな。でもね、そういうことに頼っていては、芝居が都市のものによる、都市だけのためのものになってしまって、それでいいのか、ってことなんです。

大都市の中で、大都市に暮らす人に向けて芝居を作るって、やっぱり具体的なイメージが浮かばない。観客はいったいどこにいるの?

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人の心は、狙ったものでは、動かない。

モノをつくっていると

「あと少し何かが足りない」

といつも思います。

何が足りないのか、

それがわかるときはいいのですが、

足りないんだけど、それが何かわからない、

ということの方がだいたい多い。

だけど、ふとした瞬間に、それは補われる。

いや、補われたかはわからない。

別のいい所が、その足りない感じを忘れさせただけなのかもしれない。

いずれにせよ、その瞬間っていうのが、

モノをつくっているときに、一番楽しい瞬間。

その瞬間のために、他のすべてが存在する。

僕は、台本を書くってことさえ、

その瞬間のためって考えている。

この部分を理解してもらわないと、

演出家、山田になったときに、大きく誤解されちゃう。

僕が「自由にやってみてください」と言ったときの

「自由」って意味について。

長く一緒にやっていると、たぶんわかってくれるんだけど、

はじめて一緒にやる俳優には「自由」の意味から説明しなければ、

いけない。

それを去年の「通りゃんせ」という芝居のときに教わった。

話しは戻って、補うもの、についてだけど、

それはいつも、ひょんなところからやってくる。

それって求めても、なかなか手に入らない。

本当に、何でもないときに、ふと感じる。

モノをつくるって、そのための準備を、手を抜かずにやるしかない。

狙ってできるものじゃない。

人の心は、狙ったものでは、動かない。

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演劇的な転機

僕にとっての演劇的な転機は、

若い演劇人のための集中講座と、

アゴラのワークショップ研究会

だと思う。

集中講座は2000年と2001年(たぶん)、ワークショップ研究会は2003年と2004年の2年間である。年齢でいえば30歳を少し過ぎた頃、今考えると、あんなにタフな活動をよくまあ、やれたものだ。

あのときの仲間は(演劇から離れてしまった人も多いけど)いまだに、よきライバルだと思っているし、刺激を受けている。で、ようやくそれぞれの得意分野をきちんと発見し、それに向かい始めているのではないか。

きっかけを与えられ、試行錯誤があり、自分の手で、自らの方向性を発見し、定める。そこまでいくのに、これだけの年数がかかるのだ。

これは、今30歳を少し越えた人へのメッセージとしてもいいし、私たちがこれから先の10年を見据えて、何をすべきかを考えるヒントにしてもいい。

いずれにせよ、目先の結果や、成果だけを考えていてはダメで、今やっていることは、10年くらい先になって、ようやく意味を帯びてくる、くらいのスタンスがちょうどいい。逆に言えば、人生、そんなに多くのことは成し遂げることなんてできない、ってことかもしれない。

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「言葉」を紡ぎだすものを

ひとと話していると、「実はこんなことを思っているのか」と気付かされることがある。しかもその言葉というのが、あたかも「前からずーっとそうなんだよ」という確信とともに語られるから不思議だ。

しかし一方で「本当にそんなこと思っているのか」と、自分の発言を疑うことも多い。

でも、いったん言葉に出すってのはいいことだ。それが例え真意と少しずれていたとしても、言葉にすることで考えるきっかけになる。

今、そんな言葉を交わすための「場」が必要だ。

家庭でも、職場でもいい。どこかにその「言葉」を吐き出すための、きっかけを与え、背中を押してくれるような、そんな「場」が必要だ。

芝居を観ると、誰かと話したくなるのは、作品がそのきっかけを与えてくれたからだろう。つまり芝居っていうのは、観る人の身体の中に、最初の振動を与える「きっかけ」になればいいんだ。できれば、本人が気付かないよなもの、だけど確実に新たな「言葉」を紡ぎだすもの、そんな振動をたてる。

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サーチライトと希望

ある企画を進めていて、2009年に上演したサーチライトのパンフに書いた文章を再読した。以下その抜粋です。

秋葉原の無差別殺傷事件後、電車に乗ると、誰かがナイフで刺すんじゃないかと少し不安だったことがある。アメリカに端を発した経済危機は、100年に一度の大恐慌と報じられ、これから先、何があってもおかしくないと思うようになった。つまり漠然とした不安だ。毎日が希望と夢で満ち溢れ、未来はただ明るいだけ、というわけにはいかない。

そんなとき、論座という雑誌に載った、赤木智弘さんの『「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。』という文章の存在を知った。そんな馬鹿な主張を認めるわけにはいかないと思ったが、彼に反論する文脈を持ち合わせていなかった。

私たちは「希望のない社会」より「希望のある社会」を望む。アメリカの大統領に日本に住む私たちが熱狂するのも、そう考えれば少し理解できるし、内閣支持率が下がり続けるのもわかる。オバマには希望を感じ、麻生さんには抱けないからだ。ただし政策を知り達成度をチェックしているわけじゃない。世論というのはそういうものだろう。

そもそもそういったものは、個人によって異なるし、与えられるものじゃない。若者が未来に絶望し、余命数ヶ月の人が希望を抱くことだってある。だから演劇で、作品で、希望の在り処を具体的に照らし出すことは物理的に困難だ。出演者が全員で「希望はある」とか「無限の可能性!」だなんて叫んだら、たぶん余計に悲しくなってしまうんじゃないか。

たった数年前のことなのに、今読むと、すでに「古い」ですよね。劇作家って大変だ。古典をやる意味とか、すごくよくわかります。だって、僕が次に書く戯曲だって、数年たてば「古く」なるわけですから。だけど本当は、何年たっても古くならないものを書かなくちゃいけない。難しいよ、でも目指さなくちゃ。

サーチライト2をやりたいと思っています。もちろん、3・11後、原発事故の後のこの国にある希望を、息子の失踪というモチーフだけ活かして上演すると。できれば、複数の劇作家に執筆を依頼したい。そういうものって、もしかしたら「古くなる」かもしれない種類のテキストかもしれないけれど、今やらなくてはいけない内容ではないかとも思うのです。

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私の使命

思想地図βの冒頭に、東浩紀さんが「震災でぼくたちはばらばらになってしまった」という文章を書いている。私たちは、平等ではなく、同じ災害を前にしても、被害の深さと対応力は平等ではなく、その不平等を埋める力も政府にはない、とある。

私自身、これまで不平等を強く感じることは正直あまりなかった。もちろん、不平等だなと思う対応や扱い、局面を迎えることはあったけど、40歳のひとりの成人としての平均値をやや下回るくらいだと思う。

私には小さい子供がいる。

台本を書いたり、資料を読んだりするときに、小さい子供が同じ空間にいるというのは、なかなか大変である。どんなに言って聞かせても、足元に絡みついてくることがあるし、セリフが思いついたその瞬間に邪魔をされると、腹が立つ。

だけれど、そういった現状を「不平等だ」と思ったことはなかったし、それ以上、いやその何倍ものプラスの体験を、子供は親にもたらしてくれる。

しかし、東さんの文章を読んでからというものの「子供がいること」についての不平等さ、いやそうじゃないな。「子供がいないということ」の自由について考えてみたりするのは、それほど「悪いこと」ではないのだ、と思うようになった。

繰り返すが「子供がいることが嫌だ」と言っているわけではない。はっきりいって子供の存在は、私の精神的な柱になっている。しかし同時に「小さい子供を今のこの世で育てること」への不平等さも感じる。なぜ私が子育てをしていて、あなたはしていないんだという思いだ。

だから政府に「どうにかしてくれ」と要望を出したいわけでもない。同情を寄せてもらいたいわけでもない。まして、子供手当てや、保育所の問題を論議したいわけでもない。子供を切望しているのに、様々な理由で授からない方からしたら、何を言っているのだとお叱りを受けるかもしれないことも、承知している。

しかし私は、東さんのこの文章を読んで、震災後の私の中にあった、「なんとなくもやもやしていたもの」を言い当てられてしまった。

出生率はどうなるのだろうか。このまま高齢化が進んだら、医療はどうなるのだろう。少子化によって、経済は破綻するのだろうか。放射能はどうなるんだろう。それらに目をつぶることも一つの選択だ。「知らない、なるようになるさ」という態度は、だけど、あまりに無責任だ。

責任を果たさなくては。誰にだって、使命というやつがあるだろう。それはなんだろう?演劇の作品を作ることなのか?作品はつくるさ。だけど、それは責任か?使命か?と言われると、少し違う。

もちろん、子供を見つめ続けるというのが、親としての大きな使命の一つではあるのだけど。

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学校で学ぶこと

ご存知の方も多いと思いますが、私は演劇活動と平行して(というか、生業として)数学を高校生、もしくは中学生に教えています。今は、ふたつの学校と、ひとつの塾に関わらせてもらっています。

それぞれの教育方針に口を出すことってあまりないのですが、それでも「この考えは私と似ているなあ」とか、「これはダメだなあ」とか、心の中で思ったりします。

今、日本の18歳人口は減るばかりでして、教育産業は大変です。実際、生徒が集まらず、廃業に追い込まれる大学も増えてきました。どこも、生徒の確保は死活問題だと思います。

ここで学校の取る態度には2つある。

ひとつは、受験生のニーズに合わせて、学校が変わること。もうひとつは、今一度、建学の精神に立ち返ること、です。

大雑把な感じで申し訳ないんですが、やっぱり前者の対応を取る学校が多いような気がします。具体的な傾向としては、やたらに放課後に講習をしたがったり(授業時間の増加)、やたらに(進学コース、総合コース、特進学コースなどの)コースを細分化したりします。こういう改革(改悪)をする学校が多い。これまでたくさん見てきたし、現在進行形だったりします。

学校もビジネスだ、という意見があるのは知っています。

しかし原理原則の話が許されるなら、学校というのは、いろいろな人間がいるべき空間です。刺激を受け、影響を受ける場。それが役割、学校教育のミッションだと思うのです。しかしそれを忘れ、「進学率」をあげさえすればいいと、つい思ってしまう。でもね、保護者も「進学率が高い」から、その学校に行かせようなんて、いまどき思いますかねえ?

そもそも進学率を上げて、これからの日本はよくなるんでしょうか。誰もそういうことは考えない。教育者というのは、この国の未来を担う若者を育てる人のことではないでしょうか。

いや、山田くん、理想と現実は違うのだよと、声が聞こえてきました。ああ、そんなこともちろん知っていますよ。しかし、理想を持ち、それに向かって邁進することを教育者は率先してやらなくてはいけないんです。教育者の使命は、進学率をあげて、学校をつぶさないことじゃないんですよね。

誰もが理想を持っている。だけど、現実の前では、声にならない。

迷ったとき、自信がないときは、まずはなぜはじめたのか?そこに戻るしかないですよね。なぜ自分はこれを始めたのか、決意したのか。

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自らの戯曲についての所見

念願の「いのちもてあそぶひと」の静岡公演が無事に終了しました。4月の初演のとき、ぼんやり思っていたことが、いろいろな方のおかげで、本当に実現できました。改めで御礼申し上げます。

このツアーでは、もうひとつの目的があって、それは劇団のメンバーとコミュニケーションも図るということでした。なので少し早めに東京を出て、合宿をすることにしました。

期間中は、私の過去の戯曲を声に出して読むという時間も設けました。プリントアウトすると大変なので、ノートPCを持ち込みました。

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それで全部で7本くらいの台本を読んだのですが、久しぶりに読んでみることは、自分にとって有意義なことでした。技術的なことはもちろん、いったい私は「何を書こうとしているのか」について考える機会になりました。

今回のツアーでの大きな収穫のひとつです。

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いのちもてあそぶひと

4月に上演した「いのちもてあそぶひと」が、センティバルのクロージング公演として、公募で集まった面々で上演されます。演出は第七劇場の鳴海くん。フェスティバルディレクターが、作と演出を分担してひとつの作品を作ります。

http://sentival.blog43.fc2.com/blog-category-56.html

また7月の終わりには、静岡でリーディングをして(7月29日)、および島田市で上演(7月30日)をすることになりました。宍戸と久保が客演などで参加できないので、新人の若林が参加し、キャストも一新します。

いのちもてあそぶひとは、3・11の前に3割書き、残り7割が3・11の後に書かれました。何かに引き寄せられそうになりながらも、必死に踏みとどまり、キーボードを必死で叩きました。体の中で、何かがはっきりうごめいていました。その声を聞きながら、消え去る前に急いで文字にしていきました。

再び上演される「いのちもてあそぶひと」、お楽しみに!

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