公演終了しました(その1)
一週間が過ぎましたが、「水飲み鳥/溺愛」2本立て上演、無事に終了しました。観に来ていただいた方、気にかけていただいた方、ありがとうございました。
終わってから作品について言及するのは、あまり好きではありませんが、チラシにも書いた通り、今回は「物語」について考えると宣言しましたので、こうして文章にしておこうと思います。(何回かに分けて書きます)
そもそも、「演劇は何を見せるものなのか」という問いかけに対し、ひとつの可能性を提示しようとしたのが、今回の2本立ての大きなコンセプトのひとつでした。
というのも、第七劇場の鳴海氏が2010年に演出してくれた2つの作品「藪の中」「水の中のプール」を客席で観ていて、それまで抱いていた疑問が、大きなものへと進化していきました。
その舞台では、僕の書いた戯曲の「物語」を一度解体して、説明を放棄し(とみえる)、進行していきます。初めて観る観客は、ストーリーが分かりません。台詞は音として届き、意味はその後でぼんやりわかってくる程度です。それでもまったく飽きずに興味深く観ることができました。
つまりそれは、演劇は決してストーリーを観せるためのものではないという【頭ではずっとわかっていたこと】が、自分の書いた戯曲の再上演を通じ、ようやくきちんと私が私自身の中に捉えることができたのです。
私はまず、ここはどこで、どういった設定で、どういった人たちが出てくる芝居なのか、それをまず考えなければいけません。それらが決まれば、物語が始まります。頭の中で登場人物たちが喋り始め、私はその声を聞き、パソコンで入力していきます。いったんスタートさえしてしまえば、ほとんど途中で悩むことがありません。そのくらい、執筆中は、私は私の書く物語に没頭します。
しかし、そういった書き方をやめて、ひとつのイメージ(原作となる事件があります)を、いろいろな角度から、つついたり、眺めたりして、その時浮かんだ言葉や行動を、整合性を無視して書いてみることにしました。理解不能な事件の場合、そもそも行動に整合性がないことも多いので、この書き方が、すなわち正確にモチーフを捉える方法だと思ったのです。そうして書き始めたのが「溺愛」という作品でした。(続く)





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