今、かつてNHKで放映された「プロフェッショナル」がDVDで観られる。いい時代になったものだ。
早速、装丁家の鈴木成一さんと、アートディレクターの佐藤可士和さんが登場するものを借りて観てみた。
おふたりとも、いわゆるビジネスの時間軸に乗られて仕事をされているプロであり「あやふやさを形にする」という、残酷で、プレッシャーのかかる仕事をしていらっしゃる。(興味のある人は是非観てみてください)
私は、お二方から共通するキーワードを見つけた。それはつまり
「真実は(解は)その商品(本)の中にある」という一言である。
お二方は、自らの表現欲をいったん隅に追いやり、貪欲に目の前のものの中にのみ答えを見出そうと努力している。
ここで唐突だが、shelfの矢野くんのつぶやきを観てみたい。
今日は翻訳家の毛利先生が観劇にいらして下さった。終演後の懇親会にも残って下さり、いろいろ談話。面白い話がいっぱい聞けた。イプセンの時代の台詞の変革とか、それと身分差の関係とか。あと翻訳には演出が既に含まれてますよね。っていう共同認識が、面白かった。ただ、直接突っ込んだ議論は出来なかったけど、毛利先生がいい劇作家の戯曲にはすべて台詞にやるべき演技が書かれている、というご意見には反論したかった。演出家には誤読の権利がある。テキストはあくまでもテキストだ。
このつぶやきを読んで感じた違和感はなんだろうか。その違和感とは、テキストはあくまでテキストであり、演出家には誤読の権利があるという部分なのである。
気持ちはわかる。すごくわかる。
しかし演出家は、先に紹介したデザイナーお二人をもってすれば、誤読はしてはならないのである。演出家は、テキストの中に解答が(おそらく)あると思ってにのぞむべきであり、演出家は、テキストの中に真実(あるいは核となるコンセプトのようなもの)を見つけ出し、観客に提示しなくてはいけないのだ。それが両者の仕事内容である。誤読は決してしてはならない。(はず)その制約があるからこそ(繰り返すが)演出家の個性がはじめて生まれる。
もう一度言う。誤読の権利は演出家にはない。誤読したらダメである、アウトだ。もし、演出家に誤読の権利を与えたら、恐らく演出家は思いつきでどうにかしようとする。そこにテキストはない。演出家個人に支配されるだけだ。これはテキストを上演するにあたっては決してやってはいけないことではないだろうか。
私が観たいものは、最終的には俳優だ。楽しく、退屈することなく行われた上演が、誤読の可能性を否定することになるだろうか。私はそうは思わない。教育的側面は飛躍的に必要不可欠のものになるだろうし、私たちも理解しなくてはいけない。
忘れてはいけない。
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