年の初めに
先日、思い立って自転車で30分ほどのところにある、ニトリへ向かった。買い物をして帰ろうとしたら、国道を挟んで向かい側にスシローという回転すしの店があり、小腹が空いていたこともあり、寄って行くことにした。3時過ぎだというのに、店内には待っている人がたくさんいた。
ネタしか食べない子どもにシャリも食べさせたり、水をこぼさないように気をつかったり、上の子が下の子をトイレに連れていったり、慌しくもにぎやかに時間は過ぎていった。久しぶりに白米を食べたし、赤だしの味噌汁も飲んだし、デザートも食べた。これで2,000円ちょっとというのは驚きだ。
注文もすべて機械、会計もボタンを押せば店員が来るという、そんな回転すし屋での時間だが、とっても幸福な家族の時間だった。
もっと旨いものはある、あんな店の寿司はすしじゃない、本物じゃない・・・こんな風に言う輩はいるだろう。それはもっともかもしれない。間違ってはいないかもしれない。しかし家族の幸福な時間を、あのような値段で演出できるスシローは、やっぱりすごいと思うんだよな。庶民の味方だと思うんだよ。
なんでこんなことを、書こうとしたんだったかな・・・
つまり、あれだ。
こういう時間が失われるってことは、ものすごく大変、というか、悲しいことなんだよ。土地や建物が奪われることより、幸福な瞬間が失われることこそが、つらいんだよなあ。しかもなくなったことに気付きにくいだろうから(土地や建物と違って)余計に、何を悲しんでいいのかわからないんだろうなあ。
よく失ってはじめてわかるのが「健康」っていうけど、幸福な時間は失ってわかるって種類のものじゃないのかもしれません。もう元には同じ形では戻らないから。
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